よさないかまさこの雑記blog

Kyokoさんからの手紙〜#no more Hiroshima〜.

 『晴れ渡る青空の中に、銀色に輝くエノラ・ゲイを見上げていた。お腹に裸電球が灯っている。
何故にと思った瞬間、私はオレンジ色の光線の中にいた。
周囲に火の粉が散り、バッと破裂音と同時に全ての家屋は全壊した。
避難のため広い道路に出ると、皮膚も服も熱線で黒く焼けちぢれ、ワカメの様にぶら下がり、髪も爆風で灰色に膨れあがり、女子学生たちは、互いに肩を組み支え合い、キノコ雲を後に走って逃げてくる。
白い腰巻一枚を身にまとい、両乳房の皮膚は焼け下り赤身が出ている。

死んだ孫を逆さに背負い、「敵機は何処ですか?敵機は何処ですか?」と必死に叫び続けている老母の姿が、今も焼きついている。

 私達はブドウ畠に逃避した。
夜の闇の中に、真赤に燃え続ける広島市内。
ガスタンクの破裂か、ドドーンと地をゆする。
その中にB29の爆音が……
「来やがったの!」、「偵察に来たか!」
大人の男達の怒りと憎しみの声に 何が起きているのか。
唯 茫然としていた10才の私は、爆弾で殺されるかもしれないと、はじめて恐怖を感じた。

幾日か経ち、一人で焼けた瓦礫を乗り越え、爆心地近くに向かう。
赤く焼け爛れた電車の中を覗くと、座席のスプリングの中に

白く灰になった骨が並んでいる。
一瞬に燃え上がったのかと。
又、焼けた暗いビルの中に、虫の息の兵隊さんが壁にもたれてうずくまった姿、悪夢は書き尽くせません。

 平和公園の慰霊碑。
そこに立って、幼き日の友が校舎の下敷きとなり、炎の中に生きながら焼かれ、のたうちながら天に舞い上がって行く姿が脳裏を満たします。

「原爆投下で終戦が早まり、多くの人命が救われた・・・」
実際に原爆の被害に遭っていない人達の、結果的には
原子爆弾は必要悪であった、との赦し難い理論です。

 一瞬にして幾万人の生命を奪い、大量の殺人を 勝ったと喜ぶ異常な心理状態に陥っていた。
それは戦争がもたらしたもの。

 戦争ほど悲惨なものはないと思います。
核実験、核爆発、原子爆弾は、宇宙そして地球、また全人類の為にも、絶対に廃絶しなくてはいけないです。

原爆症かもしれない!
白内障、子宮筋腫全摘、脳下垂体腫瘍手術と、身体は病み、現在は手術の後遺症か、浮遊感と神経の痛みは終日続き、
毎日が闘いです。

 暗い人生の様に思われますが、反対に 強く明るく 残った
生命を大切に、被爆体験を次世代へ訴えたいと、
昭和20年8月6日を油絵に描くことに挑戦します。
被爆者として生き残った使命感を感じ、戦争のない世界を祈り続けています。

昨年の手術、11月19日の病名は…ボーエン病という皮膚のガンの1種で、やはり腫瘍です。
ガンになるので、早く手術をしなくては……放射線によるものか。
原子爆弾、原子炉、科学の発達の悪は、地球も宇宙も破戒します。
昭和20年8月6日 8時15分 原子爆弾投下される。10才の「私が見た」そのまゝです。
絵 油彩 120号 は、精神的なものと、震災(3.11)もあって、惨状は描けなくなりました。
体調も後遺症も、ひどくなり残念です。字は、やっと書ける様になりました。
あなたが言われた様に、アンケートでA新聞本社に送りました。
結婚では差別…多分私でしょう。
 この文章とは多少異なりますが、インターネットで英訳されて全世界に発信されたと、
A新聞大阪本社から連絡がありました。
やはり、名前を出されると、インタビューとか、報道?に、この身体では対応出来ないので、匿名 K.Kで提出しました。オバマ大統領にも書きました。
字が上手く書けなくて御免なさい。

 平成23年3月30日             
                                K.Kyoko 』

引越し作業の只中、ダンボールの中から一通の分厚い封書が出てきた。
私が母となった町…第二の故郷で心を通わせたKyokoさんからの手紙だった。

封の中には、彼女の壮絶な被曝体験の原稿5枚と共に、心の支えとして来た恩師のご指導が同封されていた。在りし日のあれやこれやが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
懐かしすぎる筆致に、思わず荷解きの手を止めて読み返す。

平成23年3月31日の消印。書いて直ぐ、投函してくれていたのだ。
東日本大震災が起きた二十日後だ。この頃はお互いにショックで鬱状態にも陥り、苦しい日々を送っていたが、彼女は友人や親戚等の知り合いが誰もいない隣県に住んでいた私を心配して、よく電話をくれていた…。

私が子育てに奮闘していた頃には、広島の惨劇については漫画の『はだしのゲン』でしか知らないと言った私に、あれはほんの一部が描かれているだけで現実に起きた地獄は、あんなものではない、と何度も繰り返し聞かせてくれた生き証人の実体験。

未だ幼かった息子が、耳を塞いで泣き出した事も度々。貴女のお陰で、小学生の頃には、クラスメイトから「平和の使い」の別名で呼ばれる優しい子に育ち、いわゆる癒し系男子に成人しました。

「語り部になれば?」なんて、安易に口にするべきではなかったと、つくづく思う。
いつも満面の笑顔で接してくれる彼女だったが、生ある限り被曝の後遺症と戦い続けていたのだ。

窓の外では、これでもかと言わんばかりに鶯が鳴いている。
そう。鶯と言えばKyokoさんなのだ。
彼女は歌を緑を草花を、生あるものを美しい心を、そして平和をこよなく愛した。
私が引越す時も「鳴き声を聞いて、時々は私を思い出してね」と、オモチャの鳥をプレゼントしてくれた。
私達の送別会では、餞にと独唱してくれた。
お返しに、欲しがっていた息子の育てた朝顔の種子をあげると、翌年の夏には「晴天みたいなブルーの花が
いっぱい咲いたわよ〜」と連絡してくれた。

私達は三世の生命を信じているので、「どうせ死んだって又、何度でも生まれ変わるんだから、来世は1回人間お休みして、鳥にでもなって少しのんびりさせて貰おうかと思って。来世は原爆のない世界であって欲しいワ。
そうね〜鶯になって、一日中大好きな歌を歌って、森の中を自由自在に飛び回りた〜い。鳥になっても、必ず会いに行くから心配しないで。
ウフフ…何度生まれ変わっても又、必ず会えるんだから私達は〜三世永遠の友よ!」等と、朗らかに嘯くのが常だった。

彼女の葬儀には、長年共に歌ったというコーラスグループのお仲間達が参列し、美しいハーモニーで見送った。
沢山の花に囲まれて横たわるKyokoさんは
笑顔だった。
自分らしく輝いて、自分自身を生き切り、今世を勝利で飾ったのだ。

戦後78年の今年、第49回G7サミットが奇しくも広島で開催されるというタイミングで、この手紙が出てくるなんて!
しかも、私達の平和運動の出発点である、人類の未来のために66年前、核兵器廃絶の理想を叫ばれた先師が、平和を希求する後継の若者に託された「原水爆禁止宣言」が行われた街に、なんと私は意図せずピンポイントで越して来た所なのだ。
不思議な縁に導かれ、Kyokoさんからのバトンを受け継いで、私はここから平和を願って、貴女が遺したメッセージを発信します。

そして、私も語り継いで行きますね、私らしく。
真綿のようだったKyokoさん、今世で頂いた真心を貴女の笑顔を、決して忘れません。

沢山の勇気と希望と愛をありがとうございます。

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